三笠宮様、ご逝去100歳。昭和天皇の末弟

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歴史家でいらっしゃって、日本の歴史についても色んな事をご発言なさった。
まず国民の一人として心から哀悼の意を表したいと思います。

一方で議論になっている事があって、共同通信の記事、マスコミ各社の報道も「三笠宮様、ご逝去」と報じている。
前も触れたんだけど要するに皇族方に対する敬語です。
その表現というのがどうもメディアから消えている。

三笠宮殿下が今回亡くなられたという事を言う時にはそれ相応の言い方が本来はある。
それが薨去(こうきょ)です。
口語では僕たちも「亡くなられて」という風に平たい言い方をするわけですけどそれはそれでよしとして、やっぱり活字でお知らせするメディアとしては正式な敬語を無くしてはいけないと思います。
そういうところで日本語のこういう多様な表現というものを学んでいく機会にもなるわけですから。
そういう意味で何故この言葉を排除しているのか?
そこのところの事情を今後詳しく探っていきたいなとは思ってます。

一応メディアは、特に共同通信なんかは記者ハンドブック 第13版 新聞用字用語集という本を出してて用事用語の基準というものを持っている、各社、大手メディアも。
こういう市販されているものも参考にしている地方紙なんかもある。
だけどそういう大手メディアの基準の中で、どうもこういった皇族方に対する敬語、或いは呼称が意図的に排除されている。
その経緯については今後、本当のところを探っていきたいと思います。

昭和天皇が亡くなられたときも崩御という表現を使うか使わないかの論議があった。
そもそも議論になることが何となく不思議ですよね。

この亡くなられたときの表現だけじゃなくて、例えば歌をお詠みになりますよね?皇族方は。
で歌会始だとかそういう時、要するに和歌なんですけど、この歌という呼び名も違いますよね。
天皇陛下の歌は御製(ぎょせい)。
皇后さまの歌は御歌と言います。
こういった特殊な呼び名、或いは敬語表現も日本語の幅広い表現のうちの一つであり、且つ色んな価値観を表しているものだし、それが新たな文学性に繋がっていく。

なぜ日本語はこんなに敬語や謙譲語の表現が多様にあるかというと関係性が物凄く重要な言語だからです。
恐らく世界中の言葉の中で日本語ほど敬語表現が幅広い言語は無いと言われている。
一方で日本語には面白い特徴があって、主語が無くても通じるという事。
そこが実はリンクしていて、主語が無くても通じる代わりに敬語表現が文末に来ることによって誰と誰が話をしているのかが分かる。
ですから凄く人と人との関係を大事にする言語なんです。
更にもう一歩突っ込んだ言い方をすると、例えば天皇陛下にしか使わない表現があるという事は、そういった身分のある方、高貴な方々とそれ以外の人たちが言葉を交わす機会があるという事になる。
或いは下々のものがそういった方たちの事を話題にすることが許されている社会。
つまり他のもっと絶対君主の国だったらそもそも言葉にもできないし、或いは会話をする場面が無い。
例えば武家社会においても上と下の会話は一応あります。
だからそこで敬語が必要だし謙譲語が必要という事になる。
関係性を言葉の表現を変えることによって表す。
関係性によってそこが変わる。
でもそれは言葉でのコミュニケーションがあるという証拠なんです。
ですからこういう日本語の表現には、やっぱりそれなりの文化というのがあってこういう表現が生まれている。
それを無くしてしまおうというのはちょっといかがなものか?
関連書籍 記者ハンドブック 第13版 新聞用字用語集
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